オタクが片付けして物を持たなくなった話
明けましておめでとうございます。会社の年賀状リストで「喪中」にしてきたので会社では言わない方が良いかもしれないのでこちらで言います。年賀状送るの、もう止めにしたくて…
実家を出て初めての年越しでした。大晦日の晩に自転車で走ってたらやけに静かで、「おお、これが年越しの町なのだな…」と新鮮な感覚を味わいました。交通量が増えるイメージだったけど、みんな家で紅白とか見てるからだろうか。今までは家にいたり、そもそも人口が少ない所に住んでたから外に変化があることが新鮮だったのですな。
今年の目標は禁酒かな。苦笑
毎年そうだけど、なかなか大掃除をする気分にならない。それなりに汚い部屋で過ごしてしまう。あまり物がない部屋にいるのもあるけど。
物を持たない人のことをミニマリストって呼ぶんですね。去年の流行語の中にも入ってたけど、結構最近知りました。「物を持たない」ってことがジャンルとして確立して分類名が付いているのですな。いつからだろうか。
リビング空っぽ、みたいなバリバリのミニマリストの人からしたら到底及ばないけど、私もその気があります。もともとはゲームオタクで物に溢れた生活をしてて、片付けもすんごい苦手だったけど、ファミリーコンピュータからWiiまでのハードとそれなりに数あるソフト(任天堂信者だった)、何年分ものゲーム雑誌、同人誌に、絵を投稿する雑誌、マンガ、OVAとか、ほぼほぼ捨てたり売ったりして処分しました。自分が描いた絵も随分捨てたなあ。捨てて捨てて実家には自分のものは残さないようにして、今の1Kの部屋にあるものが自分の所有物のすべてになった。あ、Wiiはゼル伝のスカイウォードソードがやりたくて連れてきたけど。
片付けの本って、本屋行ったら棚一面陣取るくらい種類が出てるんですね。英会話とダイエットは搾取するビジネスだって聞いた事あるけど、片付けもここに属するのでは。どれだけ片付けの本読んでもむしろ本増えて片付かないと思うんだけど…(・ω・)
個人的に部屋を片付けられたのは、「収入が少なくても(狭い部屋にしか越せなくても)自分の荷物を残さず実家を出たい」ってのと、まだ達成してないけど「いつか海外で生活してみたいなー」ってのがあったから。物を減らさないとこの二つの選択肢を選ぶところまでも行かないな、と思ったし、じわじわオタクなことから興味がなくなって、今まで集めてきたものの愛着が薄れてきて、この二つの欲求の方が大きくなった。それが一番の要因だと思う。
なんで部屋が片付かないか人によると思うけど、物を抱えなきゃいけない趣味だと片付けは捗らない。プラス、どうして片付けたいのか、動機があった方が良い。大概の人はここが大きいのではないのだろうか…(・ω・)
だから自分の趣味が物を抱えないと満足できないものなら部屋片付かなくていいと思うんだよね。部屋散らかっててもいいんだよ。オタクの私はそうだった。
多分それでも片付けたい人は片付けの前に自分の趣味に対するコンプレックスとか、そっちを疑った方が良いのでは…(・ω・)
掃除するか。
禁酒しようと思った
なんで「おもしろいと周りから思われるような立ち振る舞いをわざとらしくする人が苦手」って思うのか考える
標題の人が苦手です。ちょっとした受け答えにオーバーなリアクションをとったり、何かミスをしてもすこしちゃかしてしまう人。叱られそうな場面でも、おもしろいキャラでいれば赦される、あるいは場の緊張感が緩和されると考えているのが滲み出ているのを感じてしまう。
今日大家さんが家に来ました。実は入居当時から洗面台の水道が詰まってて流れなくて、でも7月入居で(おそらく)破格な価格で貸してもらってるので黙ってたのですが、「前回より水道の使用量が40%上がっています」という投書をこないだされまして…(水道代は固定で管理会社経由)。「前回より40%」って結局払ってる水道代より使用量が多いのかどうかわからんじゃないかとか思いつつ、これを機会に洗面台が流れない事と、クーラーから黒い塵が落ちてくることを連絡したのでした。
やって来た大家さん、すごくいい人そうで、「どうして入居してすぐ言わなかったのか」とか直接的に言わなくて良かったのですが(「掃除したときは大丈夫だったんだけどなー、は言ってたw」)、前述の「わざとらしい人」でちょっともんもんしたのでした。
具体的には、「(1時間ぐらい遅れて来て)仕事がちょっと残業になっちゃって!笑 すいません!笑」みたいな言葉とか、クーラーの掃除をしようとしたら前のフタが開かなくって「開かないよー!おかーさーん!」って言ったりだとか。
実は今の職場の同期が同じような人で、そういや今まで自分がいたコミュニティにもこういう人いたなーとか思い出す。同期はそういうキャラが受け入れられていて、周りの人達はわざとらしさを感じていないのか何なのか、その反応の度に笑うし、同期はそれをコミュニケーションの手段にしている。
演技だから、本当の感受性じゃないから嫌なのか。上に書いた、自分を受け入れてもらう為の手段として繕っているのが見えるのが嫌なのか。それもそうなんだけど、多分もっと深くて、遠回しにそのコミュニケーションのとり方を強要されるから嫌なんだろうなと思う。周りが受け入れているという事は、周りと上手くやる為には自分を取り繕えという強制力がコミュニティに働いているということなのではないか。周りに適応するために嘘をつくのがよい手段とされるのが私にとっては受け入れがたいのに、取り繕う人がいるとその空気を助長する。恐らくそれが不快なのだと思う。
(・ω・)
私が感じる「取り繕ってる感」の根拠はどこにあるのだろう。実家に住んでいた時、同期と一緒に帰ってて、彼女が電車の中で会社の愚痴しか言わなかったから?(笑)でも大家さんは初対面でソレを感じたし、管理会社の人も電話口だけどその風を醸していたし、前の会社の取引先にも同じような人がいた。
嫌な言葉だけど、共通しているのは「馬鹿にしている」ってのが思い当たる。相手に気に入られる為には相手にとってよく見せておけば良い。同期も会社で上手くやる為には会社の人に気に入られないといけないし、大家さんも管理会社も取引先もお客さんに対しての態度。揉み手のイメージ。裏には「騙しとけばいい」って考えがある。同期が電車の中で会社の愚痴しか言わないように、本心は別に、ある…(・ω・)
つまり、「周りと上手くやる為に自分を取り繕うことを強要されること」、「自分を取り繕ってる人達は取り繕う相手を馬鹿にしていること」が「おもしろいと周りから思われるような立ち振る舞いをわざとらしくする人が苦手」の原因である、と…
そう…(・ω・)
嫌みじゃない面白い人ってどんな人だっただろう。また同僚は私と同じように同期の嘘を感じてはいないのだろうか。感じているならその嘘は不快じゃないのだろうか。
なにより取り繕うのはしんどくないのだろうか。自分で自分を偽ることを良しとする環境を自らつくるなんて、悪循環じゃん…(・ω・)
でも今の世の中のマジョリティに多分私は負ける。
結論はね、会社辞めたい。笑
(・ω・)
今度大阪の手づくり系イベントに出す事になりました。年明けです。
久し振りのイベント出店です。なに持ってこう…
また詳細が決まったら書きます。
マグリット展
昨日行って来ました。大学時代の友達と一緒に。
隣でやってたルーブルをみずにこっちだけ…(・ω・)
マグリットの作品って確か小学生の頃から美術の教科書に出てきてて、魅力的だなーってのはずっと思ってたのだけど、生で初めてみて来ました。今まで特別勉強したことは、ないかも…(・ω・)残念なことにシュルレアリズムの概念も説明できないままみました。
とんちんかんな解釈をしているかもしれないけれど…(・ω・)
作者のコメントがついてる絵もあって、みてて気になったのは、①「外を描いていてもそれは中からのイメージの外である」とか、②「事物と事物の表象は全く異なる」とか、③「三人の男性は同じ月をみながら違う月をみている」とか、その辺。これってつまり、描いているものは自分のフィルターを通してみた風景であって、突飛な画面でも、作者の中ではそう見えているのだから、ある意味限りなく(自分にとっての)真実ってことなのかなーと思った。で、自分以外の人間もそれぞれ事物を事物のままみていないし、それは自分と同じ感覚ではなく、三者三様の捉え方をしている、と。。。
展示を進みながら、①とか②とかがわかってきたときは「社会性のなさそうな人だなー」って思いながらみてたけど、ちがうね。③があるから人の価値観がそれぞれなことも言っているのだな。「自分にはこうみえてる世界」ってすごく主観の表現なのに、それを意識してるってことが意外だった。「ゴルコンダ」って作品も「絵ではなく鑑賞者に感情がある」的な事が書いてあって、上に書いた三者三様の世界観を意識して表現をしているのが印象的だった。
「白紙委任状」って作品も「見えているものを描く事で見えていないものを描く」的なことが書いてあったのだけど、単に馬と女性の切れている部分が補完されるってことじゃなくて(それもあるけど)、絵のバッググラウンドが鑑賞者によって補完されるって意味を含むのかもしれない。「ゴルコンダ」ってのはまさにそうかなーと。ゴルコンダってのは豊かな都市の名前らしい(よね?)。もしこれが「東京」でスーツの男性が浮いてる絵だったらって考えたら、私はどう解釈するかな。私の解釈は隣にいた友達のものとはちがうのよね。同じものをみてても。
・・・とここまで書いてちょっと調べてみたらシュルレアリズムって超現実主義っていうらしい。そうだ。そうだわ。概念的に理解出来てなくて言葉が飛んでた。調べてもよくわかんないのだけど(苦笑)、無意識のときにみえている世界が「超現実」でその光景を捉えているらしい。そうかー。なるほどわからんけど、「自分にはこうみえてる世界」というより「無意識下ではこうみえてる世界」って感じなのか。
表現が自身の主張を表すものでなくてもよいのではないかって視点に興味があるから、鑑賞者によって補完されることが許されているのではないかって思ったときはわくわくしたけど、どうなんだろうな。ちがうっぽいな。笑
(・ω・)
友達と話してて、大学出た後も周りの人達がなんやかんやでものつくってるのがわかったのが嬉しかった。知ってたけど、もっと実感が沸いた。教授から声が掛かってグループ展するらしい。画塾の先生とかが大学でたらみんなものつくらなくなるって嘆いてたのを高校時代にきいてたから、もっと酷いと思ってたけど、予想より遥かによい。まだ卒業して3年目だからだろうか。私もなんだかんだでつくってるしな。。
そういやこないだ手づくりイベントの申し込みをしました。進展があったら書きます。
インテのデカイやつ。ポストカード以外になにか持って行きたい。簡単なスカートとかつくれないかなと思案中。昇華プリントでさ。しかしビジュアルを落とし込むってやっぱむづかしい。
実はもう、何かに落とし込むのはきっと野暮なことなのかもしれないって薄々感づいてる。クラフト・工芸・アクセサリーはとっつきやすいけど、私が一番納得する方法ではなく、手段の一つだろうなと思う。でも作家を志せるアイデンティティを築けていないから、いまはこの状態でいる。どうなっていったらよいのだろうね。。。
プロフィール
(2020年8月21日更新)
自己紹介のページをなんとなくつくってみました。
こんな人が書いてます。
30代女。美術大学染織コース卒。
経歴など
2013-2015
在学中就活したけど内定が出ず、新卒を逃して既卒フリーターに。グラフィックデザインの広告制作会社で非正規雇用アシスタントを2年経験。その間カンボジアに1ヶ月行ったりする。
2015-2016
スポーツ系アパレルメーカーでデザイナーを1年経験。
2016-2018
スポーツ系アパレルメーカー退職後2ヶ月弱の無職期間を経て、インテリア雑貨店で接客や在庫管理、商品企画や広報物のデザインなど非正規雇用2年半。その間に恋人を亡くす。
2018-2019
インテリア雑貨店退職後「冬のバカンス」と称して新潟県に3ヶ月職業訓練に行くが、環境がリアルテラスハウス状態で自分以外の同世代がカップルになってしまい、腹痛を抱えて帰ってくる。
2019-2020
新潟から帰ってきた後は就活しつつハローワークや葬儀場で短期バイト。途中仕事が決まり転居手続きまでするが、上司がDV気質で3日で辞めて引っ越しも取り消す。求職しつつ個展してる時に来てくれた1社目の元上司に仕事を紹介されて、「元上司の元上司」が立ち上げた広告制作会社で非正規雇用アシスタントを4ヶ月経験。「技術が足りない」と元上司の元上司にめっちゃ怒られるのでそろそろ辞めたいと思っていた矢先、新型コロナウィルスで仕事量が激減した影響により誕生日に解雇宣告され後日無職に。今は失業保険をもらいながら日々を過ごしています。
そこそこニート気質で、働くのが得意ではありません。収入がなくなることよりも仕事して嫌なこと言われる方が嫌で簡単に辞めます。でも自分と周りを比較する能力が欠けているのか、それでいいと思っています。前述の3日で辞めた会社のDV上司曰く「痛みを感じる部分が他の人とはちがう」。まあそうかもしれません。自覚はあまりないけど、多分とてもマイペース。
複業やマルチワークといった、ひとつの会社に勤めるだけじゃない生計の立て方に興味があり会社に属さず自分一人の力で稼いでいくことに憧れていますが、いまいちどうしたらいいかわかりません。ベーシックインカムがほしい。
アートの分野で作品もつくっており、個展をたまにしています。ジャンルはインスタレーションで、写真・動画を撮って加工したもの、染織を材料にしています。活動拠点は京都です。以前はクラフトの分野が主な活動でポストカードなどをつくっていましたが、方向性がちがう気がして現在はお休みしています。
2014年〜2020年までマッチングアプリを使っていました。2017年の暮れに恋人が死んでからペアーズとTinderを使い異性に会い続け、彼氏が死んでから会った人では22人目、通算25人目に出会った人と現在は交際しています。マッチングアプリを使っていて面白かったことは、フェラーリに乗せてくれるおじさんや、ウィキペディアに載ってるサンフランシスコで起業してるおじさんに会えたこと、手練れのヤリモクに会ったこと、高学歴&高収入な人に会うにはどうすればいいか自分なりのメゾットが構築できたこと。まあこれは自分がそういう人と出会うことを目的としていた訳ではなく、「死んだ彼氏を超えてくる人」に出会うための最中に身についた副産物なのだけど…(・ω・) この辺いつか記事にしたいな。いっそ人と会うノウハウで商売できないかな。
(・ω・)
好きなのは花屋で花や枝を買って飾ること、パン屋でバゲットを買うこと。ちょっとモード系の服装をすること、ものを捨てること。家具のDIYに、誰かにあげるプレゼントの内容を考えること、好きになった人にせっせと何かをすること。セキグチのほあほあムーミンSサイズ。特技は水泳と、情報をまとめてビジュアル化すること。人の骨格や肉付きや姿勢、面立ちから大体の性格がわかること。たまに使う香水は武蔵野ワークスのヘルシンキ空港。白髪が目立ってきた。金髪にしたい。
アートの概念
ツイッターに収まりそうにないからこっちに書く。
何となく90年代jpopの歌詞の考察サイト見てる。
ふと思ったのだけど、音楽でも絵画でも作者の生い立ちやその背景から作品の意図を汲み取るのはとても自然で一般的なことだと思うけど、もしかしたら野暮なことなのかもしれない。作者の思案した通りの作品理解のためには不可欠かも知れないけど、手品のタネを解いていくような行為なのかもしれないとちょっと思う。なんというか、役者の役の心の表現ではなくて、俳優の心を解くような感じがする。
もしかしたらこれはアートと哲学の境い目の一つなのかもしれない。いままでは哲学に表現が加わればアートになると思っていたけど、それだけじゃなくて、表現をそのまま素直に受け取り手の感じるままに感動できるのはアートの特性なのかもしれない。もっとも、作者の意図を追い求めるというのは哲学というより、仏教とか、宗教なのかもしれないけど…(・ω・)
優れた作品は、どのひとにおいても汎用性がある普遍的な意味を持つ作品である側面があると思う。
誰でもどこかの部分に自己を投影できる要素があるというか…。それはその楽しみ方でいいんだろうなと思う。
書きながら気付いたけど、これは「アート」という概念がどこまでを包み込むかという話でもあると思う。
「作者の生い立ちやその背景から作品の意図を汲み取る」というのは私が教えられた、「作品を見せて、見た人の感想をきいて、自分の意図とちがっていても、そう捉えたのならそれでいい、というのは、いけない」という考え方と一緒なのだな。つまり作品作りは自己の考えを正しく理解させる手段であるということ。ずっとこれは違うと思っていたけど、今回の「野暮なのかも」という発想も、私に「自己の考えを正しく理解させる(ために表現する)」という教えを提示した人達には理解出来ないのかもしれない。あるいは、作者の作品に込めるマインドに依るのかもしれない。またあるいは、「アート」という概念のジェネレーションギャップなのかもしれない。
(・ω・)
だんだん認識が進んで来た。
この話、結構前から思ってた事と同じ文脈だ。
前違うところで書いた文章で、
『私の認識ではアートとは「自己が主張したい意見・哲学が作品を通して表現されているもの」です。つまり、「ビジュアルとして美しいと感じるもの」だけでは現代に定義されるアートではない。』
ってのがある。「作者の意図は(あるけど)無視する」を通り越して、「作者の思いは特に作品に込もっていない」って話なのだけど、双方共に、作品が作者の思いに捕われないことが共通している。「自己の考えを正しく理解させるために表現する」ってのは、作品が作者から独立してない感じがするのに、どうしてそれにこだわっているのか、というのが私の「アートに対して感じている疑問」を噛み砕いたものなのだな。
なんだ、「作品は自分の子どものようなもの」ってよく言うけど、ほんと作品づくりは子育てのようなものなのだな。
もしかして、キーワードは「自立」なのかも。つまり、「自己が主張したい意見・哲学が作品を通して表現されている」・「自己の考えを正しく理解させる」というのは、親が娘をまもり、育て、結婚して親元から離れたり、一人暮らしを始めたりして、自分(親)から受けた影響はあれど、またちがった世界で生きて行くという事を許容する力が足りていない、子離れができていないって私は感じているのかもしれない。
私に教えを提示した人達は私よりもみんな年上ってところから仮説をたてると、それは昔の方が、「イエ」とか「血縁」の繋がりが濃かったことと繋がっているのかもしれない。社会が「イエ」の文化から離れて、核家族になったり、単身者が増えたりといった時代の流れがアートの概念をつくっているのかも、しれない…(・ω・)
だとしたら、違う時代を生きているのだから、私にアートの概念を教えた人達と私のアートの概念がこうした形でブレていても、おかしくはないのかもしれない。作品に時代の価値観がでるというのはアートというジャンルに対してもそうであるのかもしれない。
おうおう…(・ω・)
ハイアートに対しての疑問に、自分なりの答えが見つかった。
日本美術史を教えてくれてたひとが、「会田誠や村上隆がどれだけ現代アートと言われていても、あなた達はすでに違う時代を歩いている」って言ってたけど、そういうことなのかもしれない。
しかし染織の専攻だったから、学んでいることの多くは現代から離れたところにあるって感覚はずっとあったけど、大学で教授から学んでいる事というのは、概念的な意味でも既に時代遅れのことを教えられているってのも改めて実感した。
他の同世代の人はどう思っているのだろうな。
「作者の意図は(あるけど)無視して大丈夫」は肌感覚としてみんな思ってると学生のころから感じてた。
それを通り越した、「作者の思いは特に作品に込もっていない」もたまに感じてた。でもそれは環境が赦さなかった。私は「作者の思いは特に作品に込もっていない」「ビジュアルとして美しいと感じるもの」を大学を卒業してからつくっているけど、それを「アート」ととして認める人はどれだけいるのだろう、な。