メタファーの境界

30代になった女の日記です。日常の肥溜めの上澄みみたいな感じ。

ものが壊れたら捨てるということ

スマートフォンが壊れてしまった。2015年から使ってるiPhone5sのゴールド色。アップルケアがまだ付いている時に1台壊していて二代目。半年前新潟県で暮らしていた時、凍ったアルファルトに落として叩きつけてしまったのがきっかけ。パーツが欠けてヒビが入り、画面がくっついてるパーツが半分浮いた状態になってしまった。いつまでもつかなと思ってたけど、今日とうとう液晶がぶよぶよ表示されるようになってしまった。

 

 浮いた画面をペコペコ押したらなんとか蘇生したので、ずっとサボっていたバックアップを急いでiTunesから取った。念のためアプリのユーザー登録を一通り確認して、LINEの引き継ぎ方法を調べてトーク履歴をiCloudに保存した。今は机に置いてるからそっと触れば動いてくれるけど、ちょっとの振動でまた液晶がぶよぶよしてしまう。もう時間の問題だ。あの時の不注意がなければもうちょっと使えただろうに、ごめんね。

 

先日駅のホームで電車を待っていたら、傘の取手がパキリといい音を出して折れてしまった。実家から持ってきた和風の黒地花柄の傘で、留め具のマジックテープが付かなくなっても懲りずに使っていた。潮時かなと思って新しい傘を買った。

そのちょっと前に3年使ったデニム生地の紺色のカバンを捨てた。色褪せて擦り切れてた部分もあったのをこれでもかと使っていたのだけど、こないだ体調を崩してもどした時に少し汚してしまって、洗ったけどこれも潮時かなと思って捨てた。

 

ものが壊れたり、壊したりすると時間の経過を感じる。過ごしてきた日々の、私が覚えきれないことをものが覚えてくれている気もする。傘を捨てれば、その傘にまつわるエピソードを思い出しにくくなる。それは記憶の一部を捨てているようにも感じられて、少し悲しい。自分とものの区別が付いていないのかもしれない。でもやっぱり捨てる。「壊れたものをずっと持ってても邪魔」と「思い出」を優先度の天秤にかけたら大抵の場合前者が重いからだ。そうやってこれまでの自分を易しく殺している。

  

私が大事に残そうと試みているLINEのトーク履歴も、もう用事は済んでいるのだし、客観的に見れば無くてもいいものだ。実際にAndroidからiPhoneに移った時に引き継げなかったトーク履歴の内容は忘れてしまったし、忘れて困ったこともない。いつか和風の黒地花柄の傘を雨の日にさしていたことも、デニム生地の紺色のカバンひとつで外国に行ったことも忘れてしまうんだろうな。4年使ったiPhoneもきっと明日ジーニアスバーに辿り着く前に役目を終える。でもそれらは健全なことなんだろう。