メタファーの境界

30代になった女の日記です。日常の肥溜めの上澄みみたいな感じ。

なんで「おもしろいと周りから思われるような立ち振る舞いをわざとらしくする人が苦手」って思うのか考える

標題の人が苦手です。ちょっとした受け答えにオーバーなリアクションをとったり、何かミスをしてもすこしちゃかしてしまう人。叱られそうな場面でも、おもしろいキャラでいれば赦される、あるいは場の緊張感が緩和されると考えているのが滲み出ているのを感じてしまう。

 

今日大家さんが家に来ました。実は入居当時から洗面台の水道が詰まってて流れなくて、でも7月入居で(おそらく)破格な価格で貸してもらってるので黙ってたのですが、「前回より水道の使用量が40%上がっています」という投書をこないだされまして…(水道代は固定で管理会社経由)。「前回より40%」って結局払ってる水道代より使用量が多いのかどうかわからんじゃないかとか思いつつ、これを機会に洗面台が流れない事と、クーラーから黒い塵が落ちてくることを連絡したのでした。

 

やって来た大家さん、すごくいい人そうで、「どうして入居してすぐ言わなかったのか」とか直接的に言わなくて良かったのですが(「掃除したときは大丈夫だったんだけどなー、は言ってたw」)、前述の「わざとらしい人」でちょっともんもんしたのでした。

 

具体的には、「(1時間ぐらい遅れて来て)仕事がちょっと残業になっちゃって!笑 すいません!笑」みたいな言葉とか、クーラーの掃除をしようとしたら前のフタが開かなくって「開かないよー!おかーさーん!」って言ったりだとか。

 

実は今の職場の同期が同じような人で、そういや今まで自分がいたコミュニティにもこういう人いたなーとか思い出す。同期はそういうキャラが受け入れられていて、周りの人達はわざとらしさを感じていないのか何なのか、その反応の度に笑うし、同期はそれをコミュニケーションの手段にしている。

 

演技だから、本当の感受性じゃないから嫌なのか。上に書いた、自分を受け入れてもらう為の手段として繕っているのが見えるのが嫌なのか。それもそうなんだけど、多分もっと深くて、遠回しにそのコミュニケーションのとり方を強要されるから嫌なんだろうなと思う。周りが受け入れているという事は、周りと上手くやる為には自分を取り繕えという強制力がコミュニティに働いているということなのではないか。周りに適応するために嘘をつくのがよい手段とされるのが私にとっては受け入れがたいのに、取り繕う人がいるとその空気を助長する。恐らくそれが不快なのだと思う。

 

(・ω・)

  

私が感じる「取り繕ってる感」の根拠はどこにあるのだろう。実家に住んでいた時、同期と一緒に帰ってて、彼女が電車の中で会社の愚痴しか言わなかったから?(笑)でも大家さんは初対面でソレを感じたし、管理会社の人も電話口だけどその風を醸していたし、前の会社の取引先にも同じような人がいた。

 

嫌な言葉だけど、共通しているのは「馬鹿にしている」ってのが思い当たる。相手に気に入られる為には相手にとってよく見せておけば良い。同期も会社で上手くやる為には会社の人に気に入られないといけないし、大家さんも管理会社も取引先もお客さんに対しての態度。揉み手のイメージ。裏には「騙しとけばいい」って考えがある。同期が電車の中で会社の愚痴しか言わないように、本心は別に、ある…(・ω・)

 

つまり、「周りと上手くやる為に自分を取り繕うことを強要されること」、「自分を取り繕ってる人達は取り繕う相手を馬鹿にしていること」が「おもしろいと周りから思われるような立ち振る舞いをわざとらしくする人が苦手」の原因である、と…

 

 


そう…(・ω・)

 

 


嫌みじゃない面白い人ってどんな人だっただろう。また同僚は私と同じように同期の嘘を感じてはいないのだろうか。感じているならその嘘は不快じゃないのだろうか。

なにより取り繕うのはしんどくないのだろうか。自分で自分を偽ることを良しとする環境を自らつくるなんて、悪循環じゃん…(・ω・)

 

でも今の世の中のマジョリティに多分私は負ける。

 

結論はね、会社辞めたい。笑

 


(・ω・)

 


今度大阪の手づくり系イベントに出す事になりました。年明けです。
久し振りのイベント出店です。なに持ってこう…
また詳細が決まったら書きます。